※空は相変わらず澄み切ったブルー
ハイ。ここが今はトゥール・スレン虐殺博物館として知られる建物。え?そんな風に見えないだって?
確かに全くもって、ここで明らかに罪の無い人々を無条件で強制的に連行して、拷問の限りをやり尽くしたこの世の地獄には到底見えない。
それもそのはず、この建物自体は元々、平和な頃は高校であり、穏やかな授業風景と笑いの絶えない明るい校舎だったからである。
それでは、窓口にて入場料を支払い、日本語音声ガイドを聞きながら順番にコースを周る
何がどう人々を虐殺と殺戮と人権無視の地獄へと貶めたのか。これはカンボジアの歴史を語る上で決して消すことも闇に葬ることも出来ない”クメール・ルージュ”という共産党が関係してくる。
このクメール・ルージュとは中国共産党の毛沢東に感化されたブラザー・ナンバー・ワンと呼ばれるポル・ポト(本名サロット・サル)という男が指導者である。1970年代当時のカンボジアは隣国のベトナム戦争のとばっちりによる空爆や、政権のゴタゴタにより腐敗していた。爆撃を恐れた何百万人もの農民が農村部から都市部へと避難生活をしていた。
シハヌーク国王が中国に癌の治療中にロン・ノル将軍がクーデターを起こす。そのままシハヌークは亡命。そしてシハヌーク自身がクメール・ルージュの支持を表明。フランスからの独立を果たしたシハヌーク国王を信頼していた何千人もの国民がその時クメール・ルージュへと入党して、勢力を増していく。
時は1975年4月17日、クメール・ルージュが首都のプノンペンへ侵攻。ロン・ノル将軍はハワイへ亡命。これから起こることを露一つ知らない無垢な子供達や大人達の歓迎ぶり。この時は今よりもきっと良い将来が待っていると思ったのでしょう。この日がカンプチア民主国の終わりの始まりの日であり、Year Zero(0年)と唱えられた。
しかし、それは間違いであった。悲劇は”突然に”である。
まず、プノンペンにいた何百万人もの人々を強制的に農村部へと移住。家族もバラバラに離される。抵抗するものならその場で殺害。プノンペン生まれでプノンペン育ちの子にも”故郷が君を待っているよ”と騙して移住させる。たった3日間でプノンペンはゴーストタウンと化す。当時、最先端の映画館も立派な銀行も故意的にクメール・ルージュに破壊される。
そして強制移住させられた人々は、各地で強制労働を強いられる。朝は日の出前から夜は月明かりの下、1日2杯だけの水のようなお粥の支給のみで強制労働だ。クメール・ルージュを通称オンカー(クメール語で組織)と呼ぶが、オンカーの命令には絶対の服従を強いられた。もちろん、人々は栄養失調や飢え、文字通り過労死により、多くが犬死にとなっていった。
そんな中、絶対的に秘密とされたここトゥール・スレン(通称S-21)に連れてこられた人数は12,000人〜20,000人ほど。それも人々が暴れないように”別の場所へと移動するだけだ”と騙して、目隠しと後ろ手に縛られての移送を繰り返した。
そして着いた先で待ってるのは強制労働の方がかなりマシに思えるほどの苦痛と恥辱と地獄の拷問の毎日である。
元々、運動器具として使われていたこちらは無実の人々を縛り上げて吊るすものとなった。
途中で気を失うものなら下にある3つの壺(中には糞便がタップリ)に頭からダイブさせて意識を呼び戻して、再度吊るし上げるというもの。その他には水責め・ナマ爪剥がし・乳首をペンチで引き抜く・女性の恥部にムカデを仕込むなどなど…。人々は動物のように、いやそれ以下の扱いで人道無比に拷問の限りをし尽くされた。
日夜、殴る蹴るは当たり前。人々の足には重たい足枷がグループで繋がれ、集団で同じ部屋に押し込まれて、一切の私語は禁止。起き上がる時は「看守。起き上がっても宜しいですか?」と必ず許可が要る。背けば拷問が待っているといった具合だ。衛生状態もすこぶる悪い。持ち物などは着ている短パンのみで、体などはロクに洗えない。月に何度か看守が外から中に向けてホースで水を撒くだけだ。その時に全裸になって浴びれる者もいれば、運悪く浴びれない者もいる。床は水浸しのまま身体を横たえるしか無いので皮膚病を患う者も多くいた。
クメール・ルージュの多くは平均年齢13歳の子供たちばかりで純真無垢な頃からこういった残酷なことを仕込ませていったのだろう。
オンカーが言う”新人類”なるインテリや医者、銀行家、教師、エンジニア、芸能人は全て敵で無差別に命を落としていった。中にはメガネを掛けていると言う理由や、柔らかな手をしている、外見が良いという理由で命を落とす者も多くいた。農民こそが英雄とし、”旧人類”と名付けられたが、それも無意味で全て関係なしに手当たり次第に殺められていった。
その他にも”血の粛清”と呼ばれる行為で処刑された者も多くいた。クメール・ルージュのための強制採血後に殺害するといった具合だ。
当時、国内にほとんど電気は通っておらず、S-21だけは24時間フル稼働の発電機の下、煌々と照らされていた。その光に吸い寄せられた虫を食べる者も多く居た。あまりの飢餓状態からだ。一度、その虫を食べる現場を看守に目撃された生存者の1人は耳を何度も何度も繰り返し蹴られたそうである。
当然、この状況下の地獄からの一番の救済は悲しいことに自ら命を絶ってしまうことなのだろうか。しかし、オンカーは自殺を許さない。それは嘘の自白を形だけ取って、上層部へ報告しないといけないからだ。
オンカーは建物全体を有刺鉄線で囲い、ビルからの飛び降りも阻止。
驚くことにS-21は氷山の一角にすぎなくて、このような収容施設がカンボジア国内に300ヶ所もあったという。身の毛もよだつ程に恐ろしい…。
※ここからは追悼の意味を込めて、写真の撮影を大幅に少なくした。
A棟の拷問部屋の1つ。ベッドの配置も床の血のようなシミも当時のまま。配置も同じで生々しさが伝わる。拷問内容は先に述べたほどだが、ほとんどの人々は亡くなってしまっているので、実際はもっと想像を絶することが行われていたのかもしれない。。
1979年1月7日にベトナム軍とカンボジア救国民族統一戦線(反ポル・ポト派)がプノンペンを攻め、クメール・ルージュを追い出すのだが、その時に彼らがこのS-21に立ち入った時には拷問し尽くされた挙句に命をおとした14人の遺体が転がっていたという。彼ら(彼女ら)は名前も身元もわからない14名で敷地内に追悼と慰めの意味で埋葬されている。
石とレンガで固められた独房である。各部屋の壁と壁は監視の目が行き届きやすいように筒抜けに破壊されている。こうした技術はクメール・ルージュ(子供だし)には無く、捕らえられた人々の中から技術者を見つけては造られたそうである。技術があることによって生き延びれた者もいる。しかし、生存者は確認が取れて12名のみ。
今、この視点から見渡しても異様な雰囲気である。連日連夜、暴力と際限ない人権無視の行為が行われたことだろう。独房内は狭く、直接立ち入るのには勇気がいるが、足を踏み入れた途端に言いようのない寒気を感じてしまった。兎にも角にも、こうした戦慄の時代がわずか40年ほど前に繰り広げられていたことに驚くばかりである。
そのまま上階に上がると、今度は木製の独房である。この中にはオンカーが人々に向けた標語として”自由になりすぎるな”と書かれているらしい。クメール語なので見つけれなかったが、この”自由になりすぎるな”の標語は私の胸に深く突き刺さる。
完全な自由も人権も人としての尊厳も略奪しておきながら、自由になりすぎるなって…。
これらの絵はS-21で過ごした芸術家のヴァン・ナットさんが描いた当時の光景の一部である。ヴァン・ナットさんは大変に勇敢で優しく、彼の証言はそのまま肉声でオーディオから聞けた。中でも印象的なのが最後の彼のメッセージである。
当時、S-21で働く職員らと対談した時の話である(以下、覚えてる限りの抜粋)
職員らは口々に「オンカーに背くことができなかった。従うしか道がなかった」と何度も何度もヴァン・ナットさんに向けて言う。
彼は答えるーーー「オンカーへの服従という言葉は聞きたくありません。もし、皆んなが”服従”か”死ぬ”かの道しか無いのであればそれは世界の”終わり”です。”正義の終わり”です。人間の良心も理想の社会もない。人が人を動物のように、いやそれ以下のように扱うのは”正しくない”のです。」
最後はきっぱりと語尾を荒げて彼は言い放った。
『…正しくないんです!』
ヴァン・ナットさんは2011年にその波乱に満ちた苦難の人生と、地獄の人生を生きた同胞達のもとへと永眠。
何も捕らえれれたのはカンボジア人だけではない。外国人も含まれていた。写真中央に写るのは友人のオーストラリア人と航海の旅に出る前に、カンボジアの港で捕らえられたイギリス人のケリー・ハミルさんである。彼もここS-21に収容されて拷問を受け続けた。身も蓋もないオンカーの自白強要に彼はユーモアを含ませて答えていたという。この自白強要の文をケリーさんの弟のロバートさんがこう伝えているので紹介しようと思う。(以下、覚えてる限りの抜粋)
オンカー「貴様のCIAの上官は誰だ?」
ハミル氏『カーネル・サンダースさ』(ケンタッキーフライドチキンの創業者)
オンカー「貴様のCIAのスパイ番号を教えろ」
ハミル氏『(友人の電話番号を教える)』
オンカー「貴様のCIAのメンバーを知る限り挙げろ」
ハミル氏『(友人の名前やビートルズのアルバムの曲名を答える)』
最後には実母のエスター・ハミルさんに宛てた愛と希望に満ちたメッセージも残してこの世を去ることになった。
※ポル・ポトの偶像
どこまでも闇が広がる暗黒の時代のカンボジア。党の代表のポル・ポトの存在は一般国民はもとより、オンカーですらその存在を知らなかったのには驚くばかりである。S-21の元所長のドッチはポル・ポトを毛沢東のように神格化すべく、偶像崇拝のために偶像を造らせる。もちろん、出来が不十分だとその場で殺害だ。
S-21内には猜疑心と恐怖が看守たちや所長のドッチの心も蝕みはじめ、”自分が党への忠誠を示さねば自分が殺される”という疑心暗鬼の心を芽生えさせた。それにより、ますます拷問は激化。この秘密の拷問と虐殺を外部には漏らせないめに、どのような手を使ってでも人々をでっち上げの嘘の自白を得て、虐殺していった。
そのうち殺害する際の断末魔の叫び声が日に日に増していき、遺体の大半を校庭であった中庭に埋めるも収集がつかなくなり、”キリング・フィールド”と呼ばれる場所へと人を連れ出すことになる(明日、訪問予定)
さて、暗黒を脱けた1979年1月7日以降、逃走を図ったポル・ポトとクメール・ルージュの残党は一体どうなったのか?
彼らはタイの国境に近い難民キャンプに身を潜め、まだ再起のチャンスを窺っていた。それから10年もの間、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オーストラリア、中国から政治的に承認されていく。しかも国際連盟は、ポル・ポト派がカンボジアを代表するとまで認めていたのには絶句である。
その後にクメール・ルージュ内で派閥が生じで1997年にポル・ポトは逮捕される。家族や孫に見守られながら自宅監禁。1年後の1998年に不審な状況下で変死。そのまま静かに火葬。
…って何だよその穏やかな人生の終わりは!!
滞在時間は約4時間ほど。通常であればその半分の時間でじっくり周れるが、私の場合はその時間では足りなかった。この国全体で起きた大きなトラウマの渦中に今、自分が立っている。目を閉じて暗黒を生きた人々の気持ちを想像してみる。長い間、木陰のベンチに座っては物思いに耽り、現代を生きる私がどう解釈すれば良いのか考えてみたが答えは出なかった。当時を私が同じように生きて、生存できたかどうか、ハッキリと言えばおそらくゼロに等しいだろう。この悲劇がもし、突然自分の身に起きたら…家族と離れ離れにされて自由を奪われたのなら…。言葉では幾らでも言い換えれるが、実際の気持ちはこの身に起こらなければ掴めないだろう。ただ、ひたすらに悲しい気持ちになるのは事実であろうが。
最後に感銘を受けた生存者の1人であるソピアさん(女性)の言葉で締めくくろうと思う。(以下、覚えてる限りの抜粋)
忘れようとしても忘れられません。自分を忙しくさせてこのトラウマから逃げるように生きてきました。でも、瞑想を通じて気づいたのです。自分以外に自分を救う道は無い。嫌悪や怒りや悲しみは澄んだ水が入ったコップに泥を入れて汚していくようなものだと。自分の身に起きたことは脇に置いて今の瞬間に生きることこそが、自分を救う道だと気付きました。自分を救う方法は自分しかいない。今ではあの過去も私の一部です。