※無数の犠牲者達の骸
道中、キリング・フィールドに関する道路標識が全く見当たらなかった事から、地元でもあまり大っぴらに案内はしたくないのだろうか。ちょっと入りくんだ箇所にあり、分かりづらかった。
さて、ここがチュンエク大量虐殺センター(通称:キリング・フィールド)である。
S-21で拷問の地獄を抜けた人々を処刑するための最後の悪夢の場所がここである。場所はS-21から南の方角へ12kmほど。当時は現在のように舗装されておらずダート道のため、トラックで30分程かかっていた。
また、このようなキリングフィールドが確認が取れただけで300箇所も点在。
ここはもともと中国人の墓地として使われており、周りに何もなく、人の目にも付きにくい事からオンカー(クメール語で組織を意味する)がキリング・フィールドとして活用。初めは週に何回かの移送だったのが、クメール・ルージュの活動が傾いてきた頃は拷問も激化して、移送も連日連夜行われた。
その数、1日に300名程。人々は「移動をするだけだ」とオンカーに言われ、目隠しと後ろ手を縛られ、連行。しかし、それを言葉通りに信じる者は居なかった。もう自分に待つのは死しかないと諦めていた。
これがそれを表した絵である。書いた人は実際にS-21に収容されて拷問を受け続け、それでも生き延びた生存者のヴァン・ナットさん。ここには処刑前の人々を一旦、並ばせるための小屋の役割をしている。
現在、小屋やその他の建物が無いのは、当時ここを発見したベトナム軍が粉々に破壊していったからである。また、その破壊された木材などは、物資が乏しかったカンボジア国内では貴重であり、近くの農民達が持っていったとされる。
このサトウヤシの木は枝がとても硬くてギザギザの部分も鋭利な刃物のようである。処刑の際は、このサトウヤシの木の部分で人々の喉を切り開いて殺害していった。確かに触れるとものすごく硬くて鋭利である。本来は鶏を殺すために使われた方法をクメール・ルージュは人間に、それも同じカンボジア人に対して行ったのだ。
処刑の際はサトウヤシの木だけを使うのではない。クワ、斧、ナイフ、鎌、竹の棒、鎖など身近にある者で繰り返し繰り返し使用して無実の人々を殺めていった。その数、この地だけで20,000人!
ここのサイズの穴には450体もの遺体が埋葬されていた。中には半死の状態で埋められて亡くなった方もいる。ひどい悪臭がするのでDDTという殺虫剤を使用して紛らわせたりもした。しかし、それも効果はほとんどなく、この地が発見された時は”地球が…、大地が何かの呪いで腐ってしまっているのか”と錯覚させたほどである。腐敗ガスにより土が盛り上がって、とんでもない悪臭が広がっていた事だろう
また当時も電気が通っているのは収容所やこうしたキリング・フィールドのみであった。ディーゼル発電機の”ドドドドドっッ”という音と共に、革命の賛美歌が延々と大音量で流された中、人々は処刑されていった。それは人々の断末魔の叫び声をかき消すためでもあり、クメール・ルージュへの忠誠心を忘れさせないためでもあった。
ここには首のない遺体が166体も見つかった場所である。多くはクメール・ルージュの若き兵士達のもので、猜疑心と疑いから見せしめのために首を切り落として処刑されていったのだろう。
※追悼と慰めの意味を込めて多くのミサンガが飾られている。
通称:キリングツリー。クメール・ルージュは幼子や乳児も人道無比に殺めていった。この木に思いっきり頭を叩きつけてから穴に放り込んでいったのだ。ここを初めに発見した農民はこの木に髪の毛や脳ミソらしきものが多く付着してるのを不審に思い、近くの穴を掘り起こして、多くの乳児の遺体や母親らしき若い女性の遺体を発見したという。
もちろん数を数えるのも吐き気がするほど多いのである。
また、そんな周りの穴からは多くの人骨。
今尚、多くの骨や衣服の切れ端が見つかっているという。
そして敷地内の中央には立派な慰霊塔がそびえる。
クメール人のルーツとも言われる蛇の神”ナーガ”とヴィシュヌ神が跨るガルーダが一緒にデザインされている。本来は敵対関係にある両者であるが同じ慰霊塔にデザインする事で平和を象徴している。
祈りを込めて。
慰霊塔の中には約9,000個もの頭蓋骨。それぞれの頭蓋骨にはどのように処刑されたかの目印としてシールが貼ってあり、性別もわかるようにカテゴライズされている。
正直、中は狭くて、人も次々と流れてくるのでじっくりと検証はできないのだが、、
1975年4月17日…あの日に…クメール・ルージュがプノンペンを占領してカンボジアを支配。暗黒の時代を迎えた人々の怨念が今尚この地に根付いているのだろうか。それとも、この歴史的な大惨事を少しでも多くの人々に知って欲しく、同じ過ちを繰り返して欲しくないと祈っているのだろうか。
私が無造作に眺めるこの人の頭も元々は名前があり、親も子供もいたのかもしれない。もしかしたら私と同じ30代だったのかもしれない。大きな大義も人生への夢もまだまだあったのかもしれない。
※中には見るも無残な形に凹んだ頭蓋骨も。
想像力を膨らませれば膨らませるほど、人々の無念が伝わってくる。断言できるのが、誰1人として喜んで死んでいった者は居ないということ。誰1人としてだ!!誰がこれを祝福できる?どのような気持ちで死を臨める?
生きたかったはずだ。
恋人に再会して、家族と元通りの生活を過ごしたかったはずだ。
そのまま敷地内には博物館も展示されている。ここでは実際に処刑で使われた道具の数々やクメール・ルージュの制服の展示、そしてビデオ映像による記録の上映もしてある。尚、追悼の意味を込めて写真は撮っていない。
空は本当に青くて綺麗。それに緑ある自然も美しい。たかが40年前、空も自然も変わるわけがない。人々の心の中はどうだ?いつか、このような大惨事が突然、我が身に降りかかってくるのかもしれない。悲劇は突然にだ。その時に私は何もすることができない無力な存在でいるままなのか。家族や恋人を守ってあげられるだろうか。
思いを照らし合わせるほどに、色々と考えてしまった。
クメール・ルージュは全国民の約800万人のうち、約300万人もの人々を人道無比に処刑。日本国民に換算すると4人に1人の計算である。
ポル・ポトの言葉 “雑草を抜くなら根こそぎ抜け”